今年は生憎の天気となってしまった成人の日ですが。いつぞや職場の上司に言われてハッと気付いたのですが、泣いても笑っても「成人式」というのは人生に一度しか経験することができません。入学式や結婚式というのは、条件が許す限り何度でもできます(笑)
それだけ成人式は人生において意外とレア度の高いイベントなんですね。個人的には、成人式に対して思い入れみたいな感情も無く、実際のとこ私は成人式には出席しなかったのですが、親にしてみれば「20年という大きな節目を迎えることができた」というのは非常に嬉しいんじゃないでしょうか。私なら嬉しいです。何にせよめでたい節目だと思います。
今年も話題になっちゃった新成人の服装
さて、そんな成人式ですが、毎年毎年なにかしらのハプニングやら何やらも含めて恒例行事みたいになっていますね。例えばいわゆる「ヤンキー(昭和臭がするな…)」な新成人による式の新興を妨げる行為だったり、時には警察官と衝突して暴動騒ぎになったりなんてことも珍しくないです。
まーなんやかんやある成人の日なんですが、その成人の日に私はこんなツイートをしています。
成人式で羽織袴がDQNアイテムになってしまってる感があるのが残念だ。
— arata takamiさん (@atrasi2079) 1月 14, 2013
後でちょっと言葉足らずだったかなーなんて思ったりもしましたが…。私の意図としては「変な色の羽織袴なんて…」という意味ではなく、「成人式で羽織袴を着る」という行為自体が既に「不良のすること」の様な扱いを受けているようで、せっかくの日本伝統の正装がもったいない事になってるなーという意味だったのです。
そんでもって、それを受けつつ。下記のような記事がネット上で散見されました。
成人式での「花魁風」振り袖に疑問の声(Livedoorニュース)
まぁヤンキーたちの笑点ヨロシクなカラフル羽織袴もあったので、個人的にはこれくらいは出現するだろうなーとか思ってたんですけどね。それでも世間的には奇異の目で見る対象になったらしく、多くのニュースサイト・2chまとめブログ・Twitterなんかで話題になったようです。
何気に似たような事は、過去にもありまして。
渋谷109で売られてるメンズの浴衣がダサすぎると話題に(痛いニュース)
「ミス・ユニバース日本代表、まるでポルノ女優」日本・海外で非難殺到…イネス氏ら「流行遅れが批判」「パンツじゃない」(痛いニュース)
実を言うと、こういった「花魁風の振袖」「109ギャル浴衣」「ミニスカ着物」といった話題になっている「話題の和装」は個人的にはハッキリ言って大嫌いです。着ろって言われたらオジサン恥ずかしくて死んじゃいます(笑)
これら「話題の和装」に対して拒否反応を示している方の多くが、おそらく見た目に対する嫌悪感で批判をしているのでは無いでしょうか。そして「着物ってこんなんじゃない!」と。
私自身、ちょっと前までは夏祭りの時期に「ミニスカ浴衣」なんかを目にすると「なんてことしてるんだ…」という風に思っていたのですが、オッサンになるにつれて考えが丸くなってきたのかどうかは知りませんが「許容されるべきなんじゃないの?」と思うようになりました。
いつの間にか「特別」になった和装
何度かこのブログでも書いたかもしれませんが、日本人にとっての「和装」があまりにも特殊な存在になってしまった側面があるんじゃないかと思います。成人式の羽織袴がDQNアイテム化してるとかってこともありますが、そういう「特例」を除いても、日本人が和服を着る機会って実は思った以上に少ないと思います。成人式を除けば、夏祭りの浴衣・甚兵衛、七五三・結婚式などのイベントくらいのもんじゃないでしょうか。男性なんかは女性に比べれば更に機会が少ないと思います。
「着物」と聞くと、呉服店で売ってる数十万単位もする高級品のイメージ、着付け等の形式がいくつも定められていて敷居の高いイメージ…そういう事が先行してしまうんじゃないでしょうか。これについては呉服業界のとってきた販売戦略等による弊害も多いのかもしれません。呉服業界が今抱えている問題というのは、それはそれは根深いようですから…。
上記の参考記事に加えて、ちょっと個人的体験談というか少しだけ垣間見た「着物を取り巻く環境」についてのお話。
私の家の近所にはとあるリサイクル着物屋さんがあります(ちょっと意外かもしれませんが、古着になった着物というのはその需要の低さのせいなのか非常に安いです。上手いこと自分に合うサイズのものが見つかれば、学生アルバイトの給与でも充分一揃え買えてしまったりします。)。現在は退職されてしまいましたが、そのお店の女性従業員の方から聞いたお話です。
その女性従業員の方は60代後半~70代前半くらいの方でした。私は最初にそのリサイクル着物屋さんに好奇心から入りました。その時に着ていたのがSOU・SOUの「ぱっと見、着物っぽく見える服」でした。その女性従業員さんは「面白いわね、どうなってるの?見てもいい?」と何度も私の着ていた服を見ていました。
すると女性従業員の方が「今は若い人がこうやってアレンジをして和服を着ているのね。素晴らしいわ。」といいました。というのも、その女性従業員の方が若い頃は「花魁風の振袖」どころか、ちょっとした着崩しも許されない時代だったそうです。まあ「ジーパン=不良」なんて話があるくらいですから本当でしょう(笑)
かつては普段着だった 「和装」がいつの間にか形式張って敷居の高いものになってしまったのは、他ならぬ我々日本人がそうしてしまった部分があるでしょう。もちろんそういった伝統美の魅力もありますし、それはそれで大切なことです。きっと呉服業界も悪気が合ってそうしたのではなく、伝統美というブランディングをしたかった側面もあるのだと思います。
昔は和装は意外とユルかった?
でもいつまでも原理主義的(?)になっていて良いのか?と思うことも沢山あるのです。伝統を守る一方で自由に各人の感性で楽しむ余地がないことで敬遠され、現に和装はこんなにも日本人にとって良くも悪くも特別な存在になってしまいました。
和装が当たり前だった江戸時代(当時は現代よりも庶民の服装規制が厳しかったそうです)なんかは、こういう着崩しも「粋」だったらしいです。今、成人式で羽織袴を着て下記の様に小袖と羽織を片肌脱ぎなんかしたら、粋どころか「だらしない!」とか言われちゃうんじゃないでしょうか。
昔は着物が普段着だったこともあって、戦前などは帯芯・帯板のようなものはあまり使わず、帯自体もそれほどきつくは締めなかったようで割とルーズな着付け方だったそうです。
ちなみに「フォーマル」のあり方も、実は時代時代で結構変化してるんですね。
例えばお葬式で黒以外のスーツを着て行ったら「あれ?」と思われるかもしれません。法律で決まってるわけでも何でもないんですが、慣例的に「お葬式は黒無地のスーツ」と相場が決まっています。まあ無難ですしね。
でも実はネイビーやグレーのスーツでも、派手な柄物でなく白シャツ・黒無地タイを着用なら失礼にはあたらないとされています。
参考:服装 -通夜・葬式・葬儀- (冠婚葬祭マナー&ビジネス知識)
もっと言うと、いわゆる「喪服」というのは明治時代頃まで「喪に服する人が着るもの」であって、遺族は喪服(昔は一部を除いて白だったそうです)を着ますが、喪に服していない参列者は喪服ではなく普段着(!)だったのだそうです。
結局のところお葬式では「故人を偲ぶ」事が最も重要なことで、宗教上のルールや思想はあるでしょうが葬儀の形式や服装がどうのというのは付随的なことに過ぎないのかもしれません。裏を返せば、黒無地だからといってトンデモナイ花飾りを頭につけたりするのは「ここ、自己主張の場じゃないんですけど…」という風に映るでしょう。
ファッションとしての振袖はアリなのか?
ちょっと脱線気味でしたが(笑)話を「花魁風振袖」に戻したいと思います。ニュース記事の中で、インタビューを受けた花魁風新成人の女性はこう答えています。
「花魁って形になります。すっごく寒いけど、雑誌とか見て憧れていた」
つまり自らが望んで「花魁風」をやったわけですね。花魁といえば遊女、つまり今で言う「風俗嬢」なわけですが、下位の遊女ならいざしらず上位の遊女ともなれば今のファッションヘルスやソープと違って、遊ぶ側にも経済力が求められるだけでなく花魁に気に入られないと遊ぶことはかなわなかったそうです。ソープ嬢と銀座の高級クラブのホステスの要素が合わさったような感じですね(銀座の高級クラブなんて行ったことありませんが…w)。そんな事もあってか「身体を売る商売」と蔑まれる事が多い風俗嬢に比べて「ファッションリーダー」のようにある種の敬意をもって見られることも多かったようです。
それでも「風俗嬢」といことで拒否反応を示す方もいたようです。
つまり「花魁風」といえど「もともと風俗嬢のものを有難がって着るとは何事か」と。 もちろん上記の方は花魁がどのようなものであるかをよくお調べになっている様で「マンガや映画のように美しいことばかりじゃないよ」と仰っているのです。
Twitter上ではこんなツイートもありました。
和服の着こなしについての話題がTLで上がっているので、無着成恭が発言して中村勘三郎が感心した言葉「型のある人が型を破ることを『型破り』といい、型のない人が型を破ることを『型無し』という」を送りたい。
— 中村屋与太郎さん (@NakamuraYa_Y) 1月 15, 2013
無着成恭さんという僧侶の方の言葉で、あの歌舞伎役者「中村勘三郎」氏が 心の支えとした「型のない人が型を破ることを『型無し』という」という言葉を使い、新成人を戒めたのだと思われます。この言葉については私も同感で、やはり何かを突き詰めようとする際、型破りなことをやったり非常識なことをやったりするには、破る対象である「型」や「常識」を知らなければ単にデタラメなのです。
が!
私はこの言葉を新成人の花魁風に投げかけるのはちょっとフェアじゃないと感じました。
というのも、花魁風新成人が「和服や着物の世界で生きていこう」「着付けをやっていこう」と思っているのであれば別ですが、ファッションとして楽しんでいるのであれば「型」を持ち出すのは酷じゃないかと思うのです。外国人の方が着物の帯を締めずにコートのように羽織っているのを見て「型を知らないやつめ」と言うんでしょうか。街中をPコートで歩いている人に対して海軍どうのと言ったりするんでしょうか。
気軽にファッションとして楽しもうとしているところに原理主義を持ち出すことを良しとするなら、スーツのサイドベンツだって本来サーベルをさすための切り込みですから戦争どうのと因縁をつけることも可能になります。私が普段着ているSOU・SOUの商品に「太夫(たいふ)」というまさしく遊女の服をモデルにしたものがありますが、それもダメになってしまうんじゃないでしょうか。
私はそんなにいかがわしいですか?いかがわしいですか…そうですか…(←)
最後にいいたいこと
個々人の好き嫌いは仕方ないでしょう。私もミニスカ浴衣は嫌いですから(笑)でも、ミニスカ浴衣も花魁風振袖もあったって別に良いんじゃないの?とも思うのです。「私は嫌い」という意見が出るならわかりますが、大暴れした訳でもない花魁風新成人をわざわざネット上で晒しあげて中傷し、成人式の服装を制限するというのは理解に苦しみます。
「成人式はフォーマルな場なんだから」というのであれば、どんな服装がフォーマルなのかを明示し、かつ「フォーマルでない」服装は入場自体を断るくらいの措置をしないと、基準が曖昧なままです。不明瞭な基準のままなのに、晴れの日で自分の好きなスタイルで出席した成人がいて、それを叶える着付け師・スタイリストがいることを許容しないというのは、それこそフェアじゃないと思うのです。
日本の風俗史としてのファッションを言うならば、大晦日に除夜の鐘をつき元旦に神社に初詣に行く様な、良くも悪くも節操のない楽しみ方をする日本人の特色でもあると思うのです。ある意味それは「許容できる」「寛容である」ということですから、それはそれで日本人の良さでもあるんじゃないかと個人的には思うんですね。
自分が良いと思ったものを自分が着たいように着る。残っていったり淘汰されたり再評価されたり…そういった一進一退を繰り返しながら、少しずつファッション史は進んでいくわけですね。
その中で伝統を守ろうとするのであれば、片一方で伝統と違うことが存在することにも寛容的でいいんじゃないのかなぁと思うのです。ましてや現代は法的にも文化的にも庶民の服装規制が強いわけでもないですし、何人かの新成人が花魁風にしたくらいで廃れるような伝統なら遅かれ早かれ別の理由で廃れるんじゃないでしょうか。
ちなみに、ちょっと昔ですが。私と似たような事を感じた方は他にもいらっしゃったみたいです。
「着物はこうあるべき」という世間の目が和装文化をじわじわ殺している(togetter)
あーーーTwitterでも他のとこでも否定的な意見多かったんだよなー…フォロワー減っちゃうかなーこれ…